2016年6月1日水曜日

6/1(水) 律法を全うされた方であるイエス・キリストを信じる










わたしが来たのは 

律法や預言者を 

廃棄するためだと 

思ってはなりません。 

廃棄するためにではなく、 

成就するために来たのです。


  マタイの福音書5章17節



イエス・キリストは、
律法ではなく、
信仰によって
人は救われることを
語られました。

でも律法は、
どうでもよいということを
言われたのではありません。

律法がなければ、
人は罪がわかりません。
律法は必要なのです。

しかし、
人は律法を守ることが
出来ないのです。
もちろん、
ある程度は
出来るかもしれません。

誠実に生きる人なら、
ほとんど守る人が、
もしかしたら、
いるかもしれません。

しかし、
完全に律法を
守り通すことは、
人間には出来ないのです。

人間は律法を
守り通せない罪人なのです。
だから、
人は本来、
天国には行けないのです。

しかし、
神の子であり、
神であられた
イエス・キリストが、

人となってくださり、
人として律法の全てを、
完全に全うして
生きてくださったのです。

だから、
私たちの罪の身代わりとなって、
十字架で
私たち人間の犯した
全ての罪の代価を、
その命によって、
支払うことができたのです。

律法は狭く言えば、
モーセの十戒ですが、
広く言えば聖書です。

聖書の原語は、
新訳聖書は
ギリシャ語で
書かれていますが、
旧約聖書は
ヘブル語で書かれています。

ヘブル語というのは、
一点一画が違うと、
全く違うことばと意味になります。

「律法の中の一点一画でも
 決してすたれることはありません。
 全部が成就します。」
とイエスは言われました。

つまり神の言葉である聖書は、
一点一画として、
永遠に変わることはない
真理の書であり、
神の言葉なのです。

だから、
この聖書の教えである戒めの
どんな小さいものの一つでも、
これを破ったり、
また、
破るように
人に教えたりする者は、
天の御国で、
最も小さい者と呼ばれるのです。

しかし一方で、
この聖書の教えを守り、
また人に守るようにと
教え導く者は、
天の御国で、
偉大な者と呼ばれるのです。

当時、
律法学者やパリサイ人は、
最も律法を守ろうとする
人たちでした。
でも、
「もしあなたがたの義が、
 その律法学者や
 パリサイ人の義に
 まさるものでないなら、
 天の御国には入れません。」
とイエスは言われました。

律法学者や
パリサイ人にまさる義、
人が肉で義を行おとするなら、
つまり
律法を自分の力で
完全に守ろうとするなら、
それは不可能です。
パリサイ人に
まさることも難しいでしょう。

では、
どうすればいいのでしょうか。

イエス・キリストは
律法を全うし、
義において完全なる人でした。
このイエス・キリストを
信じて、
自分の罪を悔い改める時に、
私たちは罪を赦され、
キリストの義をいただいて、
義において
完全なる者と
見ていただけるのです。
そして
天の御国に行くことが
できるのです。

だから、
イエス・キリストを
信じる時、
あなたの義も、
私の義も
完全なものとなり、
律法学者や
パリサイ人にも
まさる義となって、
必ず、
天国に行くことが
できるのです。




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