2016年5月31日火曜日

5/31(火) あなたがたは、世界の光です。








「あなたがたは、世界の光です。  

  山の上にある町は隠れる事ができません。」


       マタイの福音書5章14節


イエスはさらに言われました。

「あなたがたは、世界の光です。
 山の上にある町は
 隠れる事が出来ません。」と。

イエスは続けて語られます。

「あかりをつけて、
 それを枡の下に置く者はありませんね。
 燭台の上に置くでしょう。
 そうすれば、
 家にいる人々全部を
 照らすことができるからです。
 同じように、
 あなたがたの光を
 人々の前で輝かせなさい。」と。

あなたがたの光を
人の前で輝かせるとは
どういうことでしょう。

「人々が
 あなたがたの良い行いを見て、
 天におられる
 あなたがたの父を
 あがめるようにしなさい。」

と、イエスは言われました。
つまり
「良い行い」をすることです。

でもこう言うと、
勤勉な日本人は、
きちんと良い行いを
しないといけないというふうに、
すぐに
律法的になってしまう
傾向があるようです。

これは、
自分の力で頑張って
良い行いをするということでは、
決してありません。

イエス・キリストを信じた時、
私たちの内には
イエス・キリストが
住んでくださいました。

このことを
「キリストの内住」と言います。

その内住しておられる
キリストが、
私たちを通して
「良い行い」を
なしてくださるのです。
そのことを信じるなら、
私たちの内に住み、
私たちと共に歩いてくださる
キリストが、
聖霊を通して、
私たちを良い行いへと
導いてくださるのです。

イエス・キリストを
信じた時、
私たちは
世界の光となりました。

頑張って
世界の光になる
必要はありません。
なぜなら、
私たちはキリストを
信じたので、
もう
「世界の光」に
なっているのです。

男性の人は
頑張らなくても男性です。
日本人の私たちは、
普通にしていても日本人です。

イエス・キリストを信じた時、
私たちの内に
キリストが住まわれたので、
私たちは
「世界の光」となったのです。

もう頑張らなくても、
普通にしていれば
「世界の光」なのです。

だから、
キリストを信頼して、
聖霊様の導きに従って
歩んでいきましょう。

その時、
燭台の上においてあるあかりが、
家にいるすべての人を照らすように、
私たちの内に住まわれる
キリストが
私たちに
「良い行い」をさせてくださり、
人々は
そのキリストの光に照らされて、
天におられる
私たちの神さま、
真の神さまを
あがめるようになるのです。



2016年5月30日月曜日

5/30(月) あなたがたは地の塩です。











「あなたがたは、地の塩です。」

    マタイの福音書5章13節



山上の垂訓と言われる

イエス・キリストの説教は続きます。



「あなたがたは地の塩です。

 もし塩が塩気をなくしたら、

 何によって塩気をつけるのでしょう。

 もう何の役にも立たず、

 外に捨てられて、

 人々に踏みつけられるだけです。」



と。

確かに塩気をなくした塩は、

もう何の役にも立ちませんね。

外に捨てられてしまいます。



イエス・キリストを信じた者は、

地の塩なのです。



もちろん、

私たちのうちに

何かがあるのではありません。



イエス・キリストが、

信じるその人のうちに

住まわれるので、

地の塩となるのです。



イエス・キリストとともに歩まず、

全く自分勝手な道に行くなら、

私たちも

塩気をなくした塩に

なってしまいます。



気をつけましょう。



でも安心してください。

イエス・キリストが、

私たちを見捨てたり、

見放したりする事は、

決してありませんから。



ただ私たちが、

心の内側から聞こえてくる

イエス・キリストの声を

無視して生きる時、

神さまの言葉よりも、

自分の考えを大切にして歩む時、



私たちは、

塩気をなくしてしまいます。



お互い、

十分に注意して、

主と共に行き歩んでいきましょう。


5/30(日)今日のみことば




2016年5月29日日曜日

5/29(日) 喜びなさい。喜びおどりなさい。

義のために
迫害されている者は 
幸いです。

天の御国は 

その人たちのものだから。

わたしのために 

人々があなたがたをののしり、 
迫害し、
ありもしないことで 

悪口を浴びせるとき、
あなたがたは幸いです。

喜びなさい。 

喜びおどりなさい。
天では 

あなたがたの報いは大きいから。
あなたがたより前にいた預言者たちを、
人々はそのように迫害したのです。


マタイの福音書5章10・11・12節




イエスさまはさらに続けて言われます。



「義のために迫害されている者は幸いです。」



義のためにとは、

つまり義である方、

キリストのために、

キリストのゆえに

迫害をされるとき、



イエス・キリストは幸いだ

と言われるのです。



迫害されることは辛いこと、

厳しいこと、

大変なこと

と言うならわかりますが、

幸いだと言われるのです。



なぜなら、

天の御国は

その人たちの者だからと。



もう少し具体的に言えば、

ありもしないことを言われたり

悪口雑言言われたりするときには、



「喜びなさい。

 喜びおどりなさい。」



と言われるのです。



それは、

そのような迫害を受けるなら

天では

大きな報いを受けるからだ

と言われるのです。



私たちがキリストを心から愛し、

真に従って行くなら、

この世では、

迫害を受けることは避けられません。

サタンが

この地上を支配しているからです。

もちろん、

主の許しの範囲の中かだけですが・・・



また実際に

迫害をしてくるのは人ですが、

その背後にサタンが働いています。

ですから、

迫害する人がいなくなったとしても、

また別の形で、

別の人が迫害してくるということが

起こるのです。



かつて

神の言葉を語った預言者たちも、

人々から、

そのように迫害されました。



時が流れ、時代が変わっても、

神の言葉を語るもの、

神の言葉に生きるものは、

必ず迫害を受け、

ありもしないことを言われるのです。



迫害されるのも、

ありもしないことを言われることも、

悪口雑言言われることも

嬉しいことではありません。



でも喜びましょう。

喜びおどりましよう。



イエスがそう言われたのですから。



私たちは、

その報いを天で受けるのです。

これは確かなことです。



どんな報いでしょうか。

殉教者が受ける冠?かもしれません。

どんなものかは分かりませんが、

それは確かなことです。



そして天の報いは

最高の祝福なのです。



神さまは

地上でも報いてくださいます。

しかし、

地上の報いはどんなに長くても120年、

多くの報いは、

永遠の御国である天には

持っていけないものばかりです。



しかし神さまが

与えてくださる報いは、

天の報いなのです。



これは永遠に残る

確かな報いなのです。



天国は本当にあるからです。



そしてその天国に私たちは、

イエス・キリストのみ前に悔い改め、

キリストを信じたのなら、

必ず行けるのです。



そして永遠に

私たちは、そこでやがて住まうのです。



これ以上に確かな場所、

大切な場所はありません。

そこで報いを受けるのです。



だから、迫害されるとき、

ありもしないことで悪口を言われるとき、

喜びましょう。

躍り上がって喜びましょう。



天で大きな報いが待っているから・・

2016年5月28日土曜日

5/28(土) 幸福(さいわい)なるかな、平和をつくる者。


平和をつくる者は幸いです。

その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

マタイの福音書 5章9節


イエスはさらに続けて言われます。

「平和をつくる者は幸いです。」と。

イエス・キリストは
「平和をつくる者」
と言われました。

注意して聞いてください。
「平和を語る者」
とは言っていないのです。

「平和をつくる者」
と言われました。

多くの人々が平和を語ります。

しかし、
平和を語りながら
誰かを責め裁き、
怒っていたりします。
謝罪しなければ許さないと
叫んでいたりします。

平和を語りながら、
平和ではなく、
争いや分裂を作っているのです。

イエスは
「平和をつくる者」
と言われたのには、
とても深い意味があります。

イエス・キリストは
十字架にかかり、
罪と全く関係なかった方が、
罪そのものとなって、
私たちの身代わりとなり、
ご自分を罪の生贄として捧げて、
私たち罪人である人間と
聖なる方である神さまとの和解を
成し遂げてくださったのです。

イエス・キリストは、
ご自分の命を捨ててまで、
私たち罪人である人間と
神さまの間に
和解をもたらし、
平和を作ってくださったのです。

だから私たちも、
平和を語りながら
混乱と破壊をもたらすのではなく、
イエスの足跡をたどり、
キリストの愛にならって、
平和をつくる者となりましょう。

その時、
イエス・キリストが
「神の子」
であったように、

私たちも
「神の子」
と呼ばれるからです。

2016年5月27日金曜日

5/27 (金)メッセージ

心のきよい者は幸いです。

その人たちは神を見るから。

     マタイの福音書5章8節

心がきよいというと、
どんなイメージを持たれますか。

純粋、正義、嘘がない、
汚れがない、
あるいは汚れていない、
でも、そんな人はいるのでしょうか。

神さまは「聖なる方」です。
イエス・キリストは、全くきよいお方です。
聖霊なる神も全くきよい聖なる方です。

このままの私たちは、
神様に会うことも触れることもできません。
私たちには罪と汚れがあり、
神さまは全く聖なる方なので、
見ることも触れることも出来ないからです。

しかし、
私たちが自分の罪を悔い改めて、
イエス・キリストの十字架を信じるとき、
イエスの十字架の血潮の力が、
私たちの罪を赦し、汚れは洗われて、
イエス・キリストのきよさが、
罪人の私たちを覆ってくださるのです。

そのとき、私たちは、神を見るのです。